競輪つれづれ(あの日の競輪) 追悼 伏見俊昭
競輪界の世良公則はベンツのような優雅さ
伏見俊昭 享年50 福島 75期 2026年7月19日死去
何気なく「X」を見ていたら、伏見俊昭へのお悔やみの言葉が…。何事かと調べてみたら、競輪界のレジェンド、伏見俊昭が亡くなったという。18日、松阪FⅠ決勝を見ていて落車したことはわかっていたものの、まさかそれほどの大事故だったとは…。まったく思いもよらなかった。
96年の競輪祭新人王で最初に注目され、ビッグレースの表彰台を経験し、初タイトルはふるさとダービーの優勝(函館)、同年にオールスター競輪で優勝(岐阜)すると、同年初めて出場した競輪グランプリを逃げ切って優勝(平塚)した。メンバーは神山雄一郎、山田裕仁らで伏見は同郷の岡部芳幸とラインを組んだ。逃げる伏見の後位が競りになり、大渋滞。最後は直線で踏み直した山田を半車身突き放してゴールを駆け抜けた。まだ3連単がない時代。2車単は6400円の高配当になった。
この頃から常々思っていたのは伏見が歌手の世良公則に似ているということだった。実際、この時の優勝写真を見返してみると、澄んで切れ長の鋭い眼光、整った面立ち、これで世良のヒット曲「あんたのバラード」を歌ったらお似合いだろうなと想像したくなる。
伏見といえば、その華麗な乗車フォーム、走りも特長だった。ベンツのようなゆったりした感のある加速ながら、あっという間に前を抜き去る。あの優雅さは他にないものだった。ちなみに、平塚GPは優勝賞金7000万円、複勝はベンツではなく、ポルシェだった。この年は賞金王にも輝いた。
ビッグレースの常連で04年には日本選手権競輪を優勝(静岡)。これで弾みがつき、夏のアテネ五輪に出場し、長塚智弘、井上昌己とチームスプリントで銀メダルを獲得した。
その後、ビッグレースでは表彰台止まりが続いたが、07年には獲得賞金上位でGPに出場し、2度目のGP優勝を果たした。この頃は山﨑芳仁の大ギア時代の幕開けで、山﨑マークから優勝。2着に入ったのは常にタイトル争いをしていた小嶋敬二だった。3連単の時代になり、3着飯嶋則之で3万7470円といい配当になった。
伏見はアテネに続く次開催となる08年北京五輪でもメダルを期待されていた。優勝インタビューでは2度目の戴冠の喜びよりも「五輪の出場枠を獲得することが大切」と語った。結果的に2つ目のメダル獲得は叶わなかったが、帰国後のオールスター競輪では2度目の優勝(一宮)を記録するなど、伏見にとっては絶頂期でもあった。
ビッグレースはその後は11年全日本選抜競輪で優勝(岸和田)。現在でいえばビッグレースはGP2、GⅠ4、GⅡ4でトータル10を記録した。
今年も5月のGⅠ日本選手権競輪に出場(平塚)して、3日目の勝利では3連単25万3710円のビッグ配当を演出した。
11年に起きた東日本大震災を機に福島から三重県に移住し、登録は福島のままだが、ホームバンクは事故が起きた松阪競輪場になった。いわば第二の故郷のバンクで起きた事故で亡くなったことになる。
ご冥福をお祈りします。